わがまう

「わがまう」

という言葉を知っているだろうか。

「わがまう」とは

簡単に言うと、生命が躍動的に生き生きと生きている様

のことで、品詞的に言えばア行五段活用の動詞、

なのであるが、
この言葉を知っている人は、なかなかどうして大いに少ない。
と同時にそれはこの言葉がほとんど使われていない、
ということでもある。

例えば「あの人はわがまっている」とかいう風に使い、
その場合、その意味は他の言葉に置き換えようとすれば、
「あの人はとても生き生きしているなあ」という意味になる。

しかし、この言葉を他の言葉に置き換えるのはなかなか難しい。

方言を標準語に置き換えようとする時、その方言に当たる標準語が
存在しなくて、なんとか標準語に置き換えることは出来ても、
その方言の本来持っていたニュアンスというのはその方言でしか
表現しきれないといった、そんな状況に似ているかも知れない。

また、「わがまう」という言葉は生き物だけに使われる言葉ではなく、
花や木といった植物、光や炎、風や水の流れなどといった自然現象など、
およそこの世に存在するすべての存在に対して使われる。

だから「森の木々がわがまっている」と言えば、
それは他の言葉に置き換えれば
「森の木々がとても活力を持って生き生きとしていて気持ち良さそうだなあ」
と言い換えられるかも知れない。

けれどやっぱりこの言葉のニュアンスを他の言葉に置き換えるのは難しい。

「わがまう」は「わがまう」なのだ。

最初に言ったようにこの「わがまう」という言葉を知っている人は少ない。
このページを見てくれている人の中でも知っている人、というのは
ほとんどいないんじゃないかと思う。

なぜ知っている人がほとんどいないのか?
それには理由がある。

そもそも、この「わがまう」という言葉は歴とした起源があって
その起源がこの言葉がほとんど使われていない原因なのだ。

みなさんはきっと、
「ジングルベール ジングルベール 鈴がー鳴るー」
というクリスマスの歌を知っていると思うのだけど、

もし、知らない人がいたらゴメンなさい。

実はこの歌こそがこの「わがまう」という言葉の起源なのだ。

この歌を歌い続けていくとその一節に
「鈴のーリズムにー 光の輪が舞うー」
という一節にたどり着く。

今思えばなんてことはない「光の輪が、舞っている」のである。

でも子どもの頃この歌を聞いたぼくは
「ひかりのわがまう」ってなんだろう??
とかなり頭を悩ませた。

母親に「わがまうってなに?」
って聞いてももちろん母親は「知らない」と言う。

誰に聞いたって「知らない」。知っているはずがない。

それでもぼくは「わがまう」が「輪が舞う」
であることに一向に気付かずにその歌を聞き続け、
想像に想像を重ね、いつしか「わがまう」という
言葉は、冒頭で言ったように、

生命が躍動的に生き生きと動き回る様、
そしてそれは生き物には限定されない。

という結論にたどりり着いたのだった。

(もちろん子どもの頃の話だからそんな辞書に書いて
ある風に思った訳ではなくて、この意味は今の歳
になって改めて考えてみて、定義するような感じでその意味を
考えてみたのだけど。)

つまり、「ひかりのわがまう」というのは
それ以来ずっと、他の言葉に言い換えられるなら、
「光がキラキラと輝き、溢れでんばかりの生命力を
みなぎらせ、生き生きと動き回っている様子」のような
のことだと思っていた。

それに「クリスマスだから光にも命が宿ったのかなー?」
なんて思ったりもして、そう思うとますますそんな想像は
ますます確かなものへと近づいたのであった。

自分でもよく覚えていないのだけど、
中学に入るか入らないかの頃、ふと「ひかりのわがまう」
はもしかしたら「光の輪が舞う」なんじゃないか??
と気付いて、はっとした。

でもすぐには「光の輪が舞う」であるとは思わずに、
「「光の輪が舞う」とも読めるなー、面白いなー」
とか思ってそれから1、2年の間はやっぱり
「ひかりのわがまう」だと思っていたのだけど。

そして「光の輪が舞う」なんじゃないか?
と気付いてから1、2年の後、ようやく
「ひかりのわがまう」は実は「光の輪が舞う」である
ということにハッキリと気付いたのである。

その時は

「えー本当に?本当に「わがまう」じゃなくて「輪が舞う」なの?」と、

「じゃあ「わがまう」っていう言葉は??あれっ?もしかして「わがまう」
っていう言葉はそもそも存在しないの??」と、

「それじゃあ今まで思ってた「わがまう」って一体・・・?」と、

思ってかなり変な気持ちだったのを覚えている。

「わがまう」はそんな起源から生まれた言葉だから
ほとんど誰もこの言葉を知らない。

もし知っている人がいたとしたら、それはぼくと同じように
「輪が舞う」を「わがまう」だと思っていた人くらいだろう。
というか知っている人がいたらおかしい。

そんな「わがまう」という言葉なのだけど、
ぼくは密かにこの「わがまう」という言葉が好きだったりする。

そんな起源を持つ言葉だから、ものごころついた時から
ぼくの中には「わがまう」という動詞があったりして、
ぼくの中では「わがまう」というのは完全に一つの言葉と
して言葉の中に組み込まれていたりする。

今更そんな言葉は存在しないと言われても、
そんなこと言われても困ってしまう。
誰も使わなくても自分の中ではちゃんと意味があったりするのだ。

だから今でも自分の中では何も意識することなく自然に、
「ああ今日は空がわがまってるなあ」とか思ったりする。

(でも今まで会話で使ったことは無い思う、
でも使っていたのかも知れない、幼い時の記憶があいまい)

それに実は、「わがまう」には、「わがまう」から
やっぱり想像でさらに勝手に派生した言葉があって、
「わがわが」という擬態語まであったりして。

使い方は「わがまう」と大体同じで、
「今日は山がわがわがしてるなー」なんていう風に使ったりする。

どうだろう?

これからは「わがまう」と「わがわが」、
言葉として存在していることにしてもらえないだろうか。

一体誰に向かって提案しているのか分からないのだけど。

明日もわがまう1日でありますように。

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