爽やか教団

「爽やか教団へようこそ」

そう言って彼女はぼくの手を引っぱった。

ぼくは彼女に促されるままに、その暗く小さな小部屋へと
入って行ったのだった。

ぼくはどうしてここに来たんだろう?

彼女が可愛かったから?
爽やか教団に興味があったから?
それともこの小部屋に入ってみたくて?

とても可愛らしいその女性は、
名前を小百合といった。

その小部屋に入ると、ぼくと小百合さんは
すぐに意気投合した。

なぜだか分からないけれど、部屋の雰囲気と、
ぼくらの雰囲気が、そうさせたような気がした。

それからぼくらは毎日のようにその小部屋で会った。

もちろん、今思えば小百合さんにとってはそれは
布教のためだったのかも知れない。

だけど、やっぱりとても楽しい夢、のような思い出。

小百合さんが言うには、その小部屋はぼくらだけのもので、
他に誰も入る人はいないということだった。

ぼくらはお互い、気の向いた時にその小部屋に行った。

彼女が居ないときは、退屈してすぐに帰ってしまうこともあったけれど、
そこで何時間も待っていることもあった。

何時間待っても来ない時もあったけれど、
大抵、待っていれば彼女は来てくれた。

もちろん、彼女の方が先に部屋にいることだってあった。

そんな時はきっと彼女もぼくと同じように、
退屈してすぐに帰ってしまったり、時にはそこで
何時間も待っていてくれたりしたこともあったのだろう。

何時間待っても、何時間待たされても、
ぼくらはお互い嫌な顔一つしなかったし、
待っている時間もとても楽しかった。

毎日会って、何を話すというわけでも、
何をするというわけでも無かったけれど、
そんな風にしてぼくらは毎日のように会った。

小百合さんが言うには、爽やか教団は「愛と幻の教団」、
なのだそうだ。愛は幻で、幻は愛で、全ての愛を集めると
愛は幻になって、全ての幻を集めると幻は愛になるのだそうだ。

ぼくには全く理解は出来なかったけれど、
彼女のそんな話を聞くのが楽しかった。

だからぼくらは全てを愛してはいけないんだと、
全てから愛されてはいけないんだと、彼女はそう教えてくれた。

それをどう実践するか、それが爽やか教団の教えだった。

そんな教団の教えを心から信じることは到底出来なかったけれど、
そんな彼女の話がとても面白くて、いつも彼女にそんな話をして
もらっては、楽しい気分になっていた。

そんな彼女の話も聞きたくて、
ぼくはその小部屋に通った。

その小部屋は4畳くらいの広さで、
高さは2メートル程だった。

壁は薄い黒で塗られ、照明は電球が一つ、
赤く弱い光が天井からぶら下がっていた。

入り口は一つで、赤い、チョコレートの板のような
形をした扉が、小部屋の外側に開くように、一つ付いていた。

部屋の中には赤い褐色のラブソファーが一つに
透明の丸いガラスのテーブルが一つ、
それに茶色い折り畳み式の椅子が二つ、置いてあった。

ぼくらはその時の気分で、ソファーに横になったり、
椅子に座ったり、テーブルを挟んでお互い向かい合ったりした。

本当に小さな部屋だったけれど、
ぼくらにとっては充分な部屋だった。

ぼくらが何ヶ月かそうして会ったある日、
彼女がそろそろぼくを教祖様に紹介したいと言った。

そう言われてもぼくはまだ、彼女がぼくに話してくれている
教団の存在なんて信じられなかったし、「教祖様に紹介したい」
そんな彼女の言葉も、ぼくにとっては面白い彼女の話の一つに
しか感じられなかった。

でもぼくは、少し考えはしたけれど、
小百合さんを喜ばせてあげたいと思い、
彼女の申し出をうけることにした。

きっと小百合さんがいなくなってしまうのが怖かったのだと思う。

小百合さんはとても喜んでくれて、
ぼくみたいな人ならきっと教祖様も喜んでくれると言ってくれた。

それから何回か会ってからのことだった、
彼女が突然いなくなってしまったのは。

でも本当にいなくなってしまったのかどうかは、分からなかった。
ただ、お互いが部屋にいる時間がずれているだけかも知れなかったからだ。

それに、彼女も突然ぼくがいなくなってしまったと
思っているかも知れない、とも思った。

とにかく事実がどちらであるにせよ、彼女はいなくなってしまった。

どちらが本当のことかというのは問題じゃなかった、
彼女に会えるか会えないか、それが問題だったんだ。

それからもぼくは、毎日欠かすことなく、その小部屋を訪れた。

彼女が現れないのが当たり前になると、前のように何時間も
待つことはなく、すぐに帰ってしまうことの方が多かったけれど、

それでもある時は、沢山の本と食料を持って、
その小部屋に泊まり込んだりもした。

だけどやっぱり彼女は現れなかった。

約半年の間、ぼくはそんな風にしてその小部屋に足を運んでいた。
また小百合さんに会いたいと思っていた。会えないはずがないと思っていた。

そんなある日、いつものように小部屋のドアを開けると、
いつかと同じように、小百合さんが部屋にいた。

「ゴメンね、教祖様となかなか連絡つかなくってさ」

目が合うと小百合さんはそう言ってにっこりと笑ってくれた。

それから何週間か、ぼくらはまたいつかのように過ごした。

小部屋にいれば小百合さんがいて、小部屋にいれば小百合さんが来てくれた。
何をするわけでも何を話すわけでもないけれど、毎日とても楽しく過ごした。

とても楽しかった。

またこうして楽しい時間を過ごすことが出来るのが、本当に嬉しかった。
ぼくはずっとずっとこうしたかったんだ。

心からそう思った。

そんな風に改めて幸せをかみしめていたある日、小百合さんは
「教祖様に紹介するから明日は絶対に来てね」と言った。

ぼくは、そう言われると、今更ながら、本当に教団があるんだ、
なんて思って、教団にはあまり関わりたくないな、なんて思ったりもした。

でも、小百合さんとまた会えなくなるのだとしたら、
教団でも教祖様でも、何でも良い、なんてそんな風に思っていた。

それは、彼女に洗脳されていた、ということなのかも知れないけれど、
でも、それはきっと、あまり問題ではなくて。

だからもちろん、ぼくは教祖様と会うことを約束したし、
必ず、教祖様に会いに行こうと思った。

次の日小部屋に行くと、小百合さんはすでに来ていた。
だが、部屋中はどういう訳か言いようのない悪臭が充満していた。

部屋に入ると、蓋がしてあったので中身は分からなかったが、
見慣れない大きな青いポリバケツが4つ、
部屋をほとんど一杯につかって置かれていた。

ぼくはソファーに小百合さんと隣合って座ると
どうやらまだ彼女しか来ていないみたいだったので、

「あれ?教祖様はまだ来てないのかな?」
と尋ねた。

すると小百合さんは

「教祖様ならもう来てるよ、ちょっと待っててね」
と言う。

それにしてもこの悪臭はなんだろう。
ぼくはすでに悪臭に耐えかねていた。

それに、この狭い部屋の中に他に誰かがいるようには、思えない。
どこにいるのだろう?

ぼくは少し嫌な予感がした。

すると彼女はぼくの期待を裏切らずに、
バケツの蓋を一つ一つ丁寧に開け、
ぼくを教祖様に紹介してくれたのだった。

「こちらが教祖様よ。」

そう言って彼女が紹介してくれた教祖様こそが、悪臭の発生源だった。

そんな悪臭の発生源に紹介されたぼくは、
恐る恐るそのバケツの中をのぞき込んだ。

するとその中には人間の排泄物とおぼしきものが
いっぱい、いっぱいいっぱい、詰まっていたのだった。

「どう?教祖様とはうまくやっていけそうかな?」

「え?、きょ、教祖様って、これが教祖様なの・・・?」

ぼくは思わずそう問い返した。

「うん、教祖様よ、素敵でしょう?
臭いはちょっときついけどね、教祖様は凄いんだから。」

彼女はそう言うと一つのポリバケツの中に両手を突っ込んだ。

バケツの中でぐちょぐちょと嫌な音がする。

彼女は一生懸命バケツの中をかき回しながら、
ぼくの方を見てにっこりと微笑んだ。

「やっぱりね、教祖様もあなたのこと気に入ってくれたみたい。」

「そ、そう。」

ぼくは辛うじてそれだけ応えた。

どうやら彼女は排泄物、のようなもの中に手を突っ込むことで
教祖様と会話をしているようだった。

彼女はバケツから手を引き抜くと
今度は違うバケツに頭を突っ込んだ。

「ちょ、ちょっと!汚いよ!」

ぼくは思わずそう叫んで、
彼女の体を掴み、頭をバケツから引き抜いた。

「汚くなんかないよ、だって教祖様だよ!!大丈夫。」

小百合さんはそう言ってぼくの目を見た。
真剣な眼差しだった。

「私が半年もかかって来てもらった教祖様なのに!!汚くなんかないよ!!」

小百合さんは今にも泣き出しそうな表情だった。

ぼくは事態体を少し、飲み込んだつもりになった。

つまり、小百合さんがこの半年間姿を消したのは、
このバケツ一杯の排泄物を自ら貯めるためだったのではないかと。

本当にそうなのだろうか。

ぼくはそもそもこの大量の排泄物を紹介されるために、
小百合さんい声を掛けられたというのだろうか?

しかしそうだとしても、一体これがどんな風に愛と、
そして幻と関係あるのだろうか。

そう考えている間にも小百合さんは一生懸命に教祖様と話をしていた。

話、といっても言葉を出して話している訳ではない。
バケツの中の排泄物に手を突っ込んだり、
それを体に塗りたくったりしているのだ。

そんな小百合さんの姿を呆然と眺めている間に小百合さんはとうとう
一つのバケツの中身を頭からかぶりだした。

ぼくはまた思わず声が出そうになったが、
これは小百合さんにとっての教祖様なのだ、と思い、
押しとどまった。

「ねぇ、あなたも教祖様とお話してみて?
きっと教祖様気に入ってくれると思う。
こんな嬉しそうな教祖様久しぶりだもの。」

「ん、うん・・・」

ぼくは黙ってしまった。

教祖様と話をするといったって、どうやって話をすれば良いと言うのだ。
小百合さんがしているようにあのバケツの中に手を突っ込んだりしろという
のだろうか?

ぼくは途方にくれた。
いや、途方にくれた振りをしていたのかも知れない。

そうしている内に小百合さんは一つのバケツをぼくの目の前に持って来てくれた。

「初めてだとちょっと勝手が分からないかも知れないわよね。
ここに両手を入れて擦り合わせるようにしてみて。
きっと教祖様凄く喜んでくれると思うから。」

ここまで来てやっぱり教祖様には会いたくない、なんて言えない。
それに、小百合さんを悲しませるのが、こんな小百合さんの姿を
見た後でも、やっぱりとても嫌だった。

この場さえ耐えれば。

そう思って、ぼくは恐る恐るそのバケツの中に両手を突っ込んだ。
そして小百合さんに言われるようにその中で両手を擦り合わせた。

ぼくは教祖様に会っている、なんて気にはとてもなれなかったが、
小百合さんの手前、「はじめまして」と教祖様に挨拶をしてみた。

「どう?教祖様は?素敵な方でしょう?」

「う、うん、でもまだちょっとよく分からないかな」

ぼくはとりあえず適当なことを言った。
分かるわけがないじゃないか、どうやって分かれというのだ。

早くバケツの中からこの手を引き抜きたい。
返す言葉を考えている暇などなかった。

「はじめてだもんね、ちょっと代わって。私が教祖様と話してみるから。」

小百合さんはそういってぼくの代わりにバケツの中に手を突っ込んだ。

「ど、どう?教祖様はぼくのこと気に入ってくれたみたいかな?」

ぼくは教祖様に気に入られようが気に入られまいが、
そんなことはどうでも良かったが、とりあえずそう尋ねてみた。

小百合さんは満面の笑みを浮かべて
「すっごい!!こんな教祖様初めてよ、
あなたのこと凄く気に入ってるみたい。」

「そ、そうか、それは良かった。」

ぼくは意思の無い声でそう応えた。

「私も本当に嬉しい。
もし教祖様が気に入ってくれなかったらどうしようかと思ったわ。」

そう言うと小百合さんは次々と残りのバケツを頭からかぶり始めたのだった。

「ちょっ、ちょっと小百合さん!!」

ぼくは思わずそう叫ぶ。
いくら小百合さんの教祖様だからってもう見ていられない。

びちゃん。ばちゃん。

嫌な音が次々に聞こえる。

そして小百合さんは
「今日は宴会よ、教祖様も気に入ってくれたことだし、
3人で思う存分楽しみましょう!」

と。

小百合さんのそんな言葉にぼくは呆然としていたが、
そんなぼくにも小百合さんは教祖様を頭からかぶせてくれた。
まったくぐちょぐちょだ。

もう部屋中糞尿まみれだ。
もちろんぼくも早百合さんも例外ではない。

何ということだろう。
ぼくは本当に一刻でも早くこの場を立ち去りたかった。

ぼくはもう、こんな小百合さんを見ていたくなかった。

しかし宴会は終わらなかった。

それからぼくは小百合さんと抱き合い、教祖様と抱き合った。

糞尿にまみれながら、あんなに憧れていた小百合さんと抱き合った。

あんなに、憧れていたけれど、今は一体どうなんだろう?

そんなことを考えながらも、ぼくは何度も何度も
小百合さんと、そして教祖様と抱き合った。

流されるままだった。

これは、儀式なのだろうか。
愛と幻の教義のために必要不可欠なことなのだろうか。

小百合さんはこうして愛と幻の教義を確かめているのだろうか。

そんな想像が頭の中を通り過ぎていく。

なぜ糞尿にまみれて小百合さんを抱きしめなければならないのか、
ぼくはなんだか悔しくなってきた。

それはこんな小百合さんに憧れ続けていた
自分に対する悔しさだったのかも知れない。

でも、小百合さんはいつになく楽しそうだった。

それはいつもはぼくにとってもとても嬉しいこと
に違いないのだけれど、この日はとても複雑な気分だった。

嬉しいけど悔しい。

小百合さんが楽しそうにしてくればくれるほど、
ぼくはなんだか悔しくなってしまうのだ。

やがて朝が来て、ぼくらは糞尿にまみれたまま小部屋を出た。

「今日は凄く楽しかった、教祖様と会ってくれて本当にありがとう。」

部屋を出る時、小百合さんはそう言ってくれた。

「ぼくの方こそ、教祖様に会わせてくれてどうもありがとう。
それに小百合さん凄く楽しそうでぼくもとても嬉しかった。」

自分でもどこまでが本当のでどこからが嘘なのか分からなかった。

「あなたみたいな人が私たちの教団に入ってくれるなんて、
とても心強いわ。きっと、とても良い世の中に出来ると思う。」

「そ、そうかな?」

「うん。そうよ。
だってあんなに教祖様が気に入ってくれたんだもの。」

「わかった。」

「またこの小部屋で会いましょう。
最近ずっと来られなかったけどこらからは私、
毎日ここで待ってるから。」

「そうだね。また来るよ。またこの小部屋で一緒に過ごそう。」

「うん、なんだかこれから凄く楽しみだわ」

「本当、ぼくも凄く楽しみだよ。」

「またね。」

「またね。」

ぼくらはそう言って手を振ると、
それぞれ反対の方向に分かれて行った。

それからしばらくの間、ぼくはその小部屋の前まで
足を運ぶことはあっても、決してその扉を開くことはなかった。
それまで小部屋に通い続けた自分を否定したくなかったのかも知れない。

そして、何ヶ月かすると、
小部屋の前まで足を運ぶことさえなくなってしまった。

今となっては、小部屋が今もまだ存在しているのかさえ分からない。

教団の教えによると、つまりぼくは、小百合さんに愛されたがために、
小百合さんは、幻に、正確にはぼくにとって幻のような存在に、
なってしまったというのだろうか?

そしてまたぼくにとって幻ではない小百合さんに会うためには
幻を、集めなければならないと言うのだろうか?

でもそんな教団の教えも、ぼくにはもう関係ない。
関わりのないことだ、きっと。そもそもそんな教えは信じてはいないんだ。

今考えると、ぼくは一体何をしていたのか、
本当に分からなくなってしまう。

だけど、やっぱり、その思い出はとても楽しくて、嬉しくて、いとおしい。

他の人から見たら、誰もこんなわけの分からないことに巻き込まれる
よりも、他のもっと有意義なことをしていたいと思うのかも知れない。

けれど、やっぱり、どうしても、
ぼくは、この思い出が、小百合さんが、大好きで、たまらない。

二度とあの小部屋に行くつもりはないけれど、
二度と小百合さんに会うつもりはないけれど、

ぼくはあの小部屋が大好きで、
そして小百合さんが大好きだった。

きっとそれはこれからも変わらない。

毎朝彼女がつくってくれる
ちょっと甘めの卵焼きには負けるけれど。

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